1945年 4月(S,20)
知市立第四小学校に徳島より転校
高知市立第四小学校に徳島より転校。貸本漫画ブームの時代、小学3年生の時、手塚治虫の漫画「新宝島」に出会い少年ながら大いなるショックを受ける。
小学時代の同級生、中城健雄[なかじょう たてお]後に、中城健[なかじょう けん]中城健太郎[なかじょう けんたろう]、中城・けんのペンネームで梶原一騎[かじわ らいっき]と組み人気マンガ家になる。)と2人で将来はマンガ家になる事を誓い合った。
この頃よりマンガの模写を初め、教科書、ノートはマンガで埋めつくされる。
1951年 4月(S,26)
高知市立城西中学校入学
小学・中学校時代マンガ界の両巨頭、手塚治虫、馬場のぼるに憧れ、不世出のペン画家天才伊藤彦造にも熱中した。
伝説のマンガ雑誌「漫画少年」に入選を夢見つづけ、1コマ漫画や4コマ漫画の投稿マニアとなる。
この頃同じ中学の同級生安松健夫(やすまつ たけお、後にマンガ家、アニメーターとして「竜の子プロ」に入り、原征太郎[はら せいたろう] ★1の名でアニメプロデューサー、監督となる。
中学時代、中城健雄、安松健夫らと漫画研究会を作り「城西中学漫画部」として学校側に正式に部活として認められる。
地元の「高知新聞」「こども高知新聞」に投稿マンガが何度か入選する。
「マンガ高知研究会」に入る。一年後輩の壬生理[みぶ おさむ]は後に「フクちゃん」で有名な横山隆一さんのアニメプロ「おとぎぷろだくしょん」に入りアニメ監督として活躍した。
★1「昆虫物語みなしごハッチ」「科学忍者隊ガッチャマン」「ハクション大魔王」監督)と知り合い肉筆原稿の同人誌「ラビット」に中城と共に参加。
1954年(S,29)
高知市立追手前高等学校入学
「漫画少年」の常連投稿家となり、四ページ物の短編マンガ、日本昔ばなし「やすけの笛」が入選(選者は手塚治虫)。雑誌に掲載され全国誌デビューする。 ★1
「漫画少年」入選をきっかけにプロマンガ家、鈴木光明(すずきみつあき)の主宰する全国規模の肉筆漫画回覧誌「BLUE・BIRD」(ブルー・バード)に同人として参加する。
当時すでに14歳でプロデビューしていた早熟の天才、永島慎一[ながしま しんいち](後に、永島慎二[ながしま しんじ]の名で「フーテン」「漫画家残酷物語」「柔道一直線」「黄色い涙」等の作品がある)と文通をする。
この頃「BLUE・BIRD」を通じて「漫画少年」投稿仲間の石川輝義[いしかわ てるよし]★2と知り合う。
高校2年、地元の「こども高知新聞」で「天兵童子」「三つぶの豆」等を連載してプロデビューする。原稿料を稼ぐ高校生となる。
毎週〆切りに追われ、原稿の〆切日には「高知新聞社」の社旗をひるがえした"ジープ"が校庭で待機していた。授業中にマンガの原稿を描いていたが教師は黙認してくれていた。
★1この頃TVではまだ、日本昔ばなしのアニメは放映されていなかった
★2後に石川球太のペンネームで「少年ケニア」「牙王」等の動物マンガで人気作家に
1955年 8月(S,30,8)
高校2年の夏
描き溜めた原稿を持って初めて上京。講談社、小学館、集英社、秋田書店、等を訪ねる。この年初めて手塚治虫、馬場のぼる、永島慎二、鈴木光明、石川球太等と出会う。寺田ヒロオ、赤塚不二夫、石森章太郎、横田とくお氏らには、"トキワ荘"で会うことが出来た。
1956年 8月(S,31,8)
高校3年の夏二度目の上京
8月22日AM9:50 モウモウと黒煙うず巻くSLに乗って高知を出発。翌日23日AM6:16横浜着。
(当時は高知から横浜まで21時間もかかった。)東京着はAM6:50 横浜の石川輝義(球太)宅へ向かう。その後、品川・大井の永島慎二宅へ。
この年、講談社(幼年クラブ)、小学館(小学3年生)、集英社(幼年ブック)等から幼年物の原稿依頼される。
<トキワ荘>を訪ね、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、森安直哉、板井れんたろう、諸氏と会う。
この年、永島慎二さんから、「これからは一人でマンガを描く時代ではない。プロダクション形式でマンガを描く時代がやって来る。だから俺達でプロダクションを作ろう!W・ディズニーのプロダクションの様に・・・!」と熱っぽく語られる。
手塚治虫、馬場のぼる両先生宅を二度目の訪問。色紙にサインを頂く。
現在
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